研究報告 (3/28)
報告が遅くなりましたが、第二回たす研の研究報告です。
今回は5名の参加者にお越しいただきました。
第一回の研究で、「つらいことをそのまま「つらい」と言えることが大切なのでは」という話が出たので、3つの問いを立てて掘り下げてみました。
①つらいことを「つらい」と言えるようになるためには?
②つらいことを「つらい」と言うのを押し込めてしまう原因は?
③つらいことを「つらい」と言えるのはなんで大切なのか?
①
・「つらい」と言おうと意識するだけでは、言えない
・他の人が語っているのを聞いた時に、「言ってもいいんだ」と思えるようになる。そして、触発される形で自分のつらさが話せるようになる
→つらいと言えるためには、「つらい」と言う他者が必要?
②
・「しんどい」人とそうでない人の間には、どうしても権力差が発生してしまう。つまり、つらいことを話そうとすると、いきおい「しんどい」人が下になり、そうでない人が上、という構図ができあがる。
・強さ (集団内で発言力を持つ人とか) への敵対心から、強い人を否定するという「強さ」を獲得しようとしてしまう。その結果、かえって「つらい」と言えなくなる
・「つらい」と言えないということは、実は弱いことなのでは?
・しんどい人に対して言いがちな「つらいのはみんな同じだよ」という言葉は、自分の体験に根付いていない、空虚な言葉。人それぞれ違うはずのつらさを矮小化してしまい、追い詰めてしまう。
・一見「強い」人にも、弱いところはある。それに気づくことで、ルサンチマンを解呪する効果がある
③
・「つらい」と言うことには、ルサンチマンの呪いを解呪する効果がある
→解呪できると、本当はどうなりたかったのかが見えてきて、そこに生きやすくなる手がかりがある
・「「つらい」と言うと生きやすくなる」と言うと、生きやすくならなかった人に対して「生きやすくならなかったのは自己責任」というメッセージにもなってしまう
・「つらいと言うといいよ」「当事者研究するといいよ」と言う人の背景には、そう言えるに至るまでの膨大な経験がある。だけど、言葉にして伝える時、膨大な経験がどうしても切り捨てられて伝えられてしまう。結果、言葉だけが独り歩きして何も伝わらない。当事者研究のよさを伝えるのが難しいのはこういうところかも?
→どういう経験をしたかを話すとよいのかな?
次回のたす研は、4/19 (土) 15:00~17:00です。
次回はZoomを使用してみたいと思います。参加してみたい方は、Twitter (@tasuken_osaka)までお気軽にDMください。